忠順関連の史跡
村上忠順翁跡地
【千巻舎碑詞】
千巻舎の脇に設置されたこの碑は、題字が有栖川宮熾仁親王によるもので、碑文の内容は、和歌を通じての友人である紀州田辺の熊代繁里によって起案されたものです。建立したのは、忠順翁の娘婿であり、和歌の仲間であり、かつ忠順翁の資金面の応援者であった岡崎新堀村の木綿問屋深見篤慶(藤十)でした。
碑文の内容は、忠順翁の功績が書かれています。
【村上家の門扉】
村上家に残されている当時の門扉です。瓦には菊の門が彫られています。村上家は昭和30年代まで村上医院の名で地域の数少ない医療施設となっていました。江戸時代から昭和の時代までこの門から患者が出入りしていました。現在、門は市に寄贈されていますが、修復はされていず当時のままで残っています。
書庫千巻舎(ちまきのや)
忠順翁が自宅に作った書庫です。この書庫に3万点近い書籍が納められていました。その脇には、忠順翁愛用の文机があり、ここで、書籍を読んだり書き物をしたものと思われます。
現在は豊田市に寄贈され、修復されましたが、書籍等は刈谷市の「村上文庫」に収められています。
村上忠順翁墓碑
忠順翁の墓は、千巻舎の南にある村上家墓地の一角にあります。ここには村上忠順の家族の墓碑がありますが、忠順翁、その妻三千代、息子忠浄の墓碑は特徴的な形態をしています。
忠順翁は神道にのっとり葬られましたが、墓碑も通常と異なり45度斜めに建てられています。
石川丈山先生旧里碑
この碑は、安城市にある丈山苑の庭園に設置されています。起案したのが忠順翁で、翁が尊敬していた江戸時代の文化人石川丈山の功績を綴った碑文です。
知立神社式内神社標柱
知立神社は延喜式で認定された式内神社で、三河二宮です。村上忠順は知立神社の神官として勤務したことから、慶応2年(1866)神社境内に標柱を建立しました。